LOG1
憂鬱。
今の自分の気持ちを文字にしたならばこの言葉が9割を占めるだろう。というか、ここ数日間はずっとそうだと思う。そうでなければ、やたらと重い溜め息をかつてないほど量産したり、それこそ頭痛がするまで悩んで結局徹夜したり、そして今日こんなところまで来たりした時の感情を、他になんて表現すればいいのか。俺には分からない。
しかし憎らしいことに、唯一分かることがある。
それは、この言葉で表せる気持ちは、結局は9割程度にすぎないということ。
考えれば考えるほど、残りの1割が酷いものに思えてくる。
…ふいに、喜ばせてやりたくなる。自分に笑顔を向けて欲しくなる。
そうして、普段言えない感謝と、幸せを。なんとか伝えようとさせるのだから。
今日だって、俺が"こんな場所"に来るなんて、あいつは考えもしないだろう。
その分驚く。そして、喜ぶ。…もしかしたら泣くだろうか。
しかし、最後には絶対に笑う。
そう確信できたから、ここまで来てしまったのだ。
自動ドアが開く。店員は、明らかに浮いているだろう男の1人客相手でも営業スマイルを崩さずに、いらっしゃいませとマニュアル通りの挨拶と笑顔を向けてきた。意を決して中に入って、数歩。…探すために一周する必要すらない。正面のショーウインドウの中に、目的の物は置かれていた。
――ペアリング。
若者向けのアクセサリーショップで、"本番の物"と比べれば十分安いはずのそれが、眩しすぎる程に輝いて見えた。
さっきまで、私の前にはシュウが居た。椅子に座ってから一時間、一度も視線を上げないで、ブックカバーの掛かった分厚い本をずっと読んでいた。
だけど、今はそうじゃない。ここからちょっと離れた、玄関の扉の前で誰かと電話してる。私はその横顔を、ソファーの上でクッションを抱きながら眺めてる。ぼんやりといろんなことを考えながら。…まぁ要するに、やることがなくて暇なんだけど。
相手、誰なのかなぁ、良く聞こえなくて分からない。
結構長く話してる気がするし、シュウもなんだか楽しそうだし。
……なんだか、内緒話みたいかも。
そう思うと不意に懐かさがこみ上げてきた。
そういえば、小さかった頃は良くしてた。どんな話をしてたんだっけ…。
しばらく思い出に浸っていたのだけど、シュウがぱたんと携帯を閉じたのが見えたから、現実に戻ってくる。
すたすたとこっちに歩いてきて、さっきと同じように椅子に座って、サイドテーブルに置いてた本を取ろうと手を伸ばしたところで、私はそっと喉を震わせた。
「シュウ」
「…なんだい?そんな小声で」
なんでもないの、思いついただけなの、と心の中だけで返事する。
…そう、思い出しただけ。
内緒話をする前には、『内緒だよ?』ってよく言ってたなぁ…って。
「キスする、かも」
体をするりと動かしてシュウの前に移動して、その唇にちょんと触れてみる。
目を開けたら、シュウがぽかんとして、口も半開きのまま私だけを見てた。
ポケモンセンターのロビーにある大型テレビは、トレーナー向けの番組が常に放送されてる。
決められた時間になると、自動的にチャンネルが変わる仕組みになってるらしい。
その内容は様々だ。最新のニュースだったり、新人向けのポケモン講座だったり、たまに四天王や他の地方のチャンピオンの特集だったりもする。
そういうメジャーな番組は大体、視聴率が高そうな時間に集中しているから、次の番組までの空き時間がだいたいある。
そしてその時は、一般トレーナーの参加するバトルの大会やコンテストの生中継がやってることが、よくあったりする。
…でも、だからって都合が良すぎる。
備え付けのソファーに座って、テレビの正面を陣取って。
心のどこかで呆れるぐらい、じっと見つめる画面の向こうには、大きな黒いポケモンと……紫色。
夕方だしそろそろ部屋を取っておこう、と思って。
受付までの間に、何気なくテレビの方に目をやったら、彼らを見つけてしまった。
彼を、見つけてしまった。
そしたらもう、惹きつけられるように近付いて、1番良い場所で見つめるしかない。
映像で、二体のポケモンが目まぐるしく動く。
レントラーがフィールドを駆け、時には驚くほど高く跳んで、低空飛行のドンカラスの羽に噛みつこうとする。ドンカラスはそれを素早い動きでかわしている。さっき、レントラーが「スパーク」で突っ込んできたときも見事な急上昇で避けてみせ、会場を沸かせていた。
だけど、少し変だ。
ドンカラスはやたらと近付いては、攻撃もしないでかわすばかり。
まるでからかってるみたいに。
すると、レントラーが大きく下がった。トレーナーがいくぞ、と合図を叫ぶと、レントラーは僅かに前屈みになって鋭い目付きで威嚇するようにドンカラスを睨みつける。
その途端、身体の帯電が激しくなった。全体を包み込むように迸る電流は、練習で、バトルで、いつも見てきたのと似てる――そうだ、これは「ほうでん」だ。
アナウンサーがドンカラスの、そして彼の危険を実況する。
その瞬間、向けられたカメラが映し出したのは…彼の、不敵な笑み。
『「あくのはどう」!』
彼の指示を予期していたかのように、ドンカラスは軽く後ろへ伸び上がり、大きな羽ばたきと同時にタイムラグのないエネルギー波を放出した。
悪タイプの攻撃は幾重にも円を描いて進み、あっという間に無防備なレントラーを捕らえる。顔を歪めて耐えるレントラー。溜まっていた膨大な電力は集中力が途切れたせいで保てなくなり、技にならないまま地面に吸収されていくのが分かった。
肌が粟立つ。
ああそっか、彼はあの技を待っていたんだ。だったらもう次は――
間を置かず、ドンカラスが猛スピードで突っ込んでくる。まるで銃から撃たれた弾丸のように、地面すれすれの位置で風を斬るその体が、強い光に包まれていく。
さっき不意を突かれていたトレーナーにもレントラーにも、こんな急展開に対応できる余裕なんてあるはずがなくて。
「ゴッドバード」が鮮やかに決まった、数秒後。
訪れた静寂の中で、彼の勝利を告げるコールが綺麗に響き渡った。
いつの間にか握りしめていた拳をゆっくりと解いて、深く息をする。
バトルフィールドから彼らの姿が消えて、アナウンサーとゲストの解説が入り、表彰式に向けて軽い整備が行われる様子が映ってから、CMへと移り変わる。
そして、あたしは立ち上がった。
ポケギアを手にとって履歴から彼の名前を探して、通話ボタンを押す。
さっきのバトルで高鳴る鼓動が、コール音でさらに大きくなっていく。
しばらくして、無機質な音はぷつりと途切れた。…よかった!
「シンジ!今日はもうその街にいるの?…いいから早く!
…うん、うん……わかった。じゃあそっちに行くから。…え?
……会いたくなったからよ!じゃあね!」
人の気配を感じて、カスミはそっと目を開いた。
その意識はまだぼんやりとしたままだったので、認識できたのは誰かが傍にいることと、自分がどこか柔らかいものに横たわっていることだけだった。
たっぷり数十秒掛けて、リビングのソファーに、寝ていたことを思い出す。
それから、物音のする方へ顔を横へゆっくり傾けると、床に座っている見慣れた背中が視界に入った。
「サトシ」
「…起きたのか?」
カスミは寝起き特有の掠れた声でその名前を呼んだ。
サトシが体を少しひねって振り返ると、今まで彼が見ていたのだろう、向こう側のテレビの画面がカスミにも見えた。しかし、沢山の色がチカチカと光って何かを映していることや二つのスピーカーが音声を発していることは分かっても、肝心の内容が彼女の頭に入ってこない。つまり、それほどカスミは眠かった。
サトシもそんなカスミの様子に気付いて、少し笑った。
「寝てていいぜ」
嬉しい申し出だったが、カスミはそれを頭の中だけで断って、寝そべったまま足だけを下へ落とす。床にぺたりとひっ付けると、冷たいような、そうでないような、曖昧な感覚が足の裏から伝わってくる。
とりあえず高さがそれほどないことを確認して、カスミはゆっくりと、体を横に転がした。狭いソファーの上は一回転しただけで淵を越えて、そのまま重力に従いころりと落ちる。慌ててサトシは両腕を伸ばして受け止め、なんとか床と衝突は免れた。
「何やってんだよ」
「…ねむい」
「だから寝てていいって…布団まで運んでやろうか?」
「いい…」
カスミは短く答えると、体勢を変え、サトシの胸にぽすんと頭を預ける。
耳を当てると、規則的な音が聞こえてくる。カスミの中にも同じように響いている、けれどどこか違うリズム。
とくん、とくん。正しくて、愛しくて、脆くて、だからこそ強い、サトシの鼓動。
「…カスミ?」
「このままがいい…」
「なんで?」
返事は、返せなかった。
カスミは再び眠りに落ちていく中で、そっと幸せを噛みしめる。
次に起きたときにまた、この優しい音を聞けることが何よりも嬉しかった。
時刻は十一時五二分。当然ながら廊下は静まりかえっていて、踵が床を打つ音が立たないよう僅かばかり気遣いながら、色味の落ちた橙色が照らす中を歩く。
ふいに、ポケットの中身が小刻みに震え出した。
取り出して見て、驚く。画面に表示されているのはたった三文字の名前、きっとそう珍しい物でもないだろう。けれど、それは最大のライバル兼最愛の彼女の名前なのだから、特別以外の何物でもない。少なくとも、自分にとっては。
しかし、普段の連絡は互いの都合を気遣ってメールにすることが多いのに、このタイミングで電話を掛けてくるなんて…一体これは偶然だろうか、それとも彼女が起こした必然だろうか。
通話ボタンを押し耳に当て、小声で、「もしもし」と言えば、
『もしもしシュウ!?』
と間髪置かずに返事が返ってきた。どうやら相当急いでいるらしい。
その割りに危険な目に合っている雰囲気ではなさそうだ――ただの勘ではあるけど、これが間違っていたことはほとんどない。
だとしたら、何故こんなにも切羽詰まっているんだろう?
「どうかした、」
『写メ送って!』
………………………。
…え、なんだって?
「…何?」
『だから写メ!シュウの写メを私に送ってほしいの、今すぐ!』
「いや、それはいいけど……なんで?」
尋ねたその瞬間、電話の向こうのハルカは一度息を呑んで、それからふっきれたように、どこか力強ささえ感じるマシンガントークを開始した。
たまにある事なので、慣れもあってそのスピードには付いて行けたが、とにかく内容が多いし物事の順序もめちゃくちゃで、それを整理する方が大変だ。口を挟む隙間を探すのは最初から諦めて、空返事をしながらただ必死に理解する。
『……ってことなのよ!』
開始から三分後、やっと終わった話を要約すると。
ハルカは昔から、会えない日が長く続いた時にはおまじないを使っていた。
それは特定の人の夢を見るという有名なもので、方法は簡単、相手の写真を枕の下にいれて眠ればいいのだが、今日、寝る間際になって、今まで使っていた写真がどこにも見あたらなくなった。
他に写真は持っていなかったため、慌てて僕に電話してきた、ということらしい。
――どうしようもなく頬が緩む。
正直に言おう。可愛い。すごく可愛い。
昔から僕の夢を見てたとか、それを見る写真をなくしたからって本人に電話をしてくるとか。
今、ハルカは一体どんな顔をしているんだろう。見たい。すごく見たい。
「ハルカ」
『いいわよ!笑うなら笑いなさいよ!』
「ああ、もう笑ってるよ。そして写真は送らない」
『…嫌、なの?』
「そうじゃなくて。…部屋の扉を開ければ、分かるよ」