起立、気をつけ、礼。
授業終了時に行われる一連の動作の後、真っ先にヒカリは動き出した。机の横に掛けていた手提げ袋を取って廊下に飛び出し、そこにまだ残っていた緊張感も速い足音でかき消していく。抱えた物の中身が揺れないよう、なるべく気をつけて。
彼女がここまで急いでいるのは、とある少年を捕まえるためだった。本来ならば彼とヒカリのクラスは隣で、走る必要はどこにもない。しかし、やっかいなことに少年にはサボり癖があり、たびたび教室からいなくなってしまうのだった。
そして、先ほどの授業中。運が良いのか悪いのか、ヒカリは窓際の自席から少年の姿を見かけていた。
あの時間帯であの場所にいるなら、恐らく教室には戻らないだろう。そして、人混みの嫌いな少年のことだ。生徒がそこに集まってくる前に、目当ての物を調達する気に違いない。
そう判断し、ヒカリはその場所へ一直線に向かっていく。
そうして。
ヒカリは目的地――食堂の前で立ち止まった。
例え授業をサボっていようが今はお昼時で、さらに彼は育ち盛り。ご飯を食べないわけがないのだ。
乱れた息を整える一呼吸の間、ヒカリの視線は当てもなく辺りを彷徨い。…ふと、ある一点で止まる。
その頬が自然と緩み、嬉しさを纏っていく。
いつも通りの仏頂面のまま、こちらへ近づいてくる少年を迎えるために。
「シンジっ」
「…何の用だ」
冷たい言葉にも関わらず、ヒカリは満面の笑みになり。手提げから青い包みを取り出して彼の前に突き出した。
「お弁当、一緒に食べよ!」
シンジの目が、僅かに見開かれた。
卵焼きを咀嚼しつつ、シンジは視線を空になった弁当箱からヒカリに移した。小さく切られたリンゴを嬉しそうに口に運んでいる。それは向こうにとっても最後の一口だったようで、手元の可愛らしい箱は中に白い底だけを見せていた。
シンジにとって、ヒカリの印象は「騒がしい」がほぼ9割を占めていた。自分と話しているとすぐ声を荒げものすごいスピードで言葉を打ち出してくる。しかし今、目の前の少女は終始にこにこと微笑んで、食事に熱中していた。わざわざ弁当箱を二つ作って自分を待ちかまえていたくせに、最初に「ちゃんと食べてよ?」と言ったきり、何も話さないまま。
シンジにとってはとにかく理解しがたい行動だった。
(…気に入らない)
何が、と聞かれても答えられない。飲み込んだ卵焼きも含め、少し歪な形であったり火を入れすぎていたりしたものもあったけれど、ヒカリの作った弁当は全て味が良かった。
けれどシンジの心から、違和感に似た不愉快な気持ちが消えない。
リンゴを食べ終わったことで集中力が切れたのか、ヒカリがシンジの視線に気づいて顔を上げた。青い瞳が柔らかく笑うと違和感はさらに増し、シンジは眉を顰めた。
「おいしかったでしょ?」
「……まずくはなかったな」
「何それ!お礼ぐらい素直に言えないの!」
ヒカリはむっとした顔になって睨んできた。青い瞳が真っ直ぐに、挑むようにシンジを見ている。
その瞬間、違和感はたちまち消えてしまった。
あまりに早い出来事にシンジは驚き――ほんの少しだけ口元を持ち上げる。
「お前」
「…何よ」
「喋ってろ」
「は、」
聞き返そうとして、ヒカリは固まった。
彼女が見たのは、横になっているシンジの体と、太ももの上に乗ったちょっと重い、紫色。
人はそれを、膝枕という。
状態を把握し、しかしその理由はまったく理解できないまま。
ヒカリは顔が急激に熱くなるのを感じて、乾いてしまったような喉から必死に声を絞り出す。
「ぁあ、あんた何して、」
「五月蠅い」
ちっとも変化のない声にヒカリは熱さも忘れ、再びむっとする。
「喋ってろって言ったじゃないの!」
「喚けとはいってない。いつものようにくだらないことでも勝手に言え」
「な、によ…」
だんだん落ち着いてきたような、そうでないような。複雑な気分ではあるが、これがそう悪い状況でもないことは、ヒカリが一番よく分かっていた。
照れやら呆れやらいろいろな気持ちがこもったため息を、ひとつして、それから。
「…あのね、こないだ散歩してたらね?ポッチャマにすっごくピッタリなスカーフを見つけたの。ちょっと高かったんだけど、思わず買っちゃって…でも、付けてあげたら本当に喜んでくれて!高かったけど十分だなぁって思った。でね、みんなにも何かぴったりな物を何か買ってあげようと思って、それからいろんなお店を回って…」
(…………前言撤回)
しかしそのスペースを手放すのは、なぜだかとても惜しい気がして。昼休みが終わるまで、全てをヒカリに預けたままその話を聞くことに決める。
窓の上や彼女の背中側から向けられるいくつかの視線を無視して、シンジは睡魔とは関係なく目を瞑った。